自己紹介
家族は妻と長女、長男の4人家族です。
現在、都議4期目の現職。いずれもトップで当選を果たしました。
1976 年、世田谷区三軒茶屋にて、出版社マガジンハウスで編集の仕事をする父と、スタイリストとして働く母の、共働き家庭に生まれました。父は団塊世代で、なんでも判官贔屓。母は「好きな仕事に就きなさい。人生一度きり」が口癖で、「勉強しろ」と言わない珍しい親でした。親族に政治家は見当たりませんでした。
自宅マンションにて
小学 6 年生のときの運動会にて
区立中学時代
世田谷区立中学校に進学すると、そこは荒れ果てた世界。教師は生徒の暴力に怯えて、学校崩壊。でも、校長も教育委員会も見て見ぬふり。勉強したい生徒は塾へ行き、塾に行けない生徒は、もっと荒れていく。「大人たちは何やってんだ」と、社会への不満が芽生えた頃かもしれません。
成蹊高校時代
私立成蹊学園高等部に入学。学園には乗馬クラブまであり、生徒たちは、学園ライフを満喫。中学を思い出し、同じ時代の、同じ世界で起きていることとは思えず、凄まじい教育格差を目の当たりにしました。 非自民の細川政権が誕生し、政治への関心も芽生え、「新聞記者になって、いつか政治家になる」が夢になっていました。
大学時代。友人達とのひととき。
大学時代に歴代最年少・公設第一秘書に
早稲田大学1年目は毎日新聞社政治部で編集のアルバイトをしながら、記者を目指しました。大学2年目に、民主党の中国訪問団に参加した縁で、目黒区を地盤とする国会議員の秘書となり、大学4年時には、最年少公設第一秘書に就任。その後、平成14年に早稲田大学第一文学部を卒業しました。
目 黒区議会議員へ
2003年の目黒区議会議員選挙に民主党から出馬し、4位で最年少当選。26 歳の時でした。念願の文教委員会に入り、起業家教育プログラムを目黒区立中学校に導入し、教育改革の第一歩を踏み出す。翌年、現職の区長が亡くなり、当時、都議会議員だった青木英二氏が区長に当選したことで、民主党の都議が不在に。
目黒区政で初めてパネルを使った質問
東京都議会議員へ(1期目)
2005年の東京都議会議員選挙(目黒区定数 3 名)に出馬。1位、最年少当選を果たす。当時28歳でした。文教委員会に入り、「塾に通える子供と、通えない子供の学力格差」について質問。一方で、都議会自民党の数と力に圧倒される毎日でした。
マニフェスト大賞の創設
政策がもっと評価される地方政治を実現したいとの思いから、政治のアカデミー賞をつくろうと奔走。北川正恭氏(元三重県知事)に提案し、マニフェスト大賞の創設者となりました。マニフェスト大賞は現在15年目となり、超党派の議員から2000件を超える政策を集めています。
マニフェスト大賞・六本木ヒルズの会場にて
東京議会議員の2期目
2009年の東京都議会議員選挙で2期目の1位当選。都議会第一会派になった民主党で、築地・豊洲問題を担当し、経済港湾委員長に就任するなど、都議会自民党との論戦の最前線に立つようになりました。 また、21年ぶりの議員提案条例「省エネ条例」を創案、成立させました。
早朝5時の築地市場を視察